自分の思うことをやってみたい。
それが青春である。
思ったことを、夢を、現実の中にのばして行けたらどんなに愉しいだろう。
それが人間生きていることだと思う。
新藤兼人「太陽とカチンコ」
◆初めに何があったか。
新藤兼人氏にとって、起業とは何か。青色発光ダイオードの中村修二氏と同様、
――「はじめに起業ありき」ではない。
――「はじめに望みありき」だった。
それは、彼の映画人生のスタートからして如実に示されている。
22歳:それまで熱心な映画ファンでもなく、敷居の高い思いをして兄の家に厄介になり、なすこともなくただブラブラ過していた彼が、ろくに看板も見ないで入った映画館で観た1本の映画(山中貞夫の「盤獄の一生」)にすっかり感動してしまった。盤獄という正直一徹の融通の利かない侍が、世間という壁にやたらと額をぶっつけていくという物語(どこぞやの愛媛の田舎の研究者の話みたいだ)が山中貞雄の才気溢れる新鮮な映像により表現され、彼の胸をゆさぶった。
これだ、と。
全身をしびれるように刺し貫くものがあった。
映画監督!
そう決め、それ以外のこと、どうしたら映画監督になれるのか、どんな方法で映画へ入るのか、そんなことはどうでもよかった、何をやるかが問題だったのだ、それが決まったのだ。(「青春のモノクローム」18頁)
彼はそのまま田舎から飛び出して、撮影所の門をたたいた。
◆では、どうして起業(インディーズ)に至ったのか。
――単に、自分の望みにこの上なく誠実であろうとしたからにすぎない。
その望みを大切にしそれをどこまでも貫き通そうとしたら、生きた事件(=生きた矛盾)を通じて、その先に、出口が待っていた。その出口に「「起業」という文字が刻まれていた(望みの追究が彼を起業に導いた)。
38歳:松竹脚本部に身を置き、念願の一流脚本家としての道を歩んでいる途上、彼が真に書きたいと思ったものと会社が作れという「儲かる物」との対立・矛盾が次第に(というより予定通り)深まり、「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」と首脳たちが問題にするに及んで、
よしだったら、松竹をやめよう
と決め、独立プロ「近代映画協会」を設立。
あとへは引けぬ気持ちだった。男の意地とかいう浪花節ではない。作家というものを考えた。会社と折れ合ってとどまったにしても、会社にしばられているかぎりは生涯つきまとう問題だと考えた。
決断が必要なのだ。(「新藤兼人の足跡5--闘い--」70頁)
◆新藤兼人の起業(=インディーズ)はどのような形態を取ったか。
――彼の望みにふさわしい形態をめざした。しかし、当然のことながら、<芸術性>と<商業性>との対立・矛盾を克服する理想的な形態を発見するまで、失敗と試行錯誤の連続だった。
起業形態の実態は、参加者の地位が対等な協同組合的なものだった。しかし、ことはそう簡単には行かなかった。なぜなら、いくら民主的な映画スタッフ集団を結成しても、第一に映画制作資金がなかった。また、作った映画を流通させ、エンドユーザの手元に届ける仕組みを全く持っていなかった。つまり、映画産業というシステム全体のうち、資金面と流通面をコントロールする力が全くなかったので、生産のところでいくら民主的な映画スタッフ集団を独立・結成しても、そのままでは、既存の大手映画会社の単なる「下請け」にとどまるだけだった。
しかも、当初は、既存の大手映画会社に弓を引いた生意気な大反逆人として(あたかも戦国時代の一向一揆衆のように憎まれ)、彼らの「下請け」の仕事すらさせてもらえなかった。
しかし、必死の努力の甲斐があって、大映ととにもかくも仕事をすることができるまで漕ぎ着けた(昭和25~26年に製作した「偽れる盛装」「自由学校」「源氏物語」がヒットした)。
しかし、27年企画した「原爆の子」「夜明け前」が大映に拒否され、ここで再び、<芸術性>と<商業性>との対立・矛盾に直面し、外見は独立プロでフリーとはいえ、その中身は会社の意向に沿って仕事をする「下請け」にすぎないという壁に思い切りぶつかった。
自主製作
自主製作をしなければ壁は破れないと思った。カネを計算していては怖くて何もやれない。無計画でぶっつからねば何もできない。民芸の重ちゃん(宇野重吉)に相談した。民芸には俳優がいるし、共同製作でやればできると思った。‥‥わたしは横浜駅で重ちゃんたちの汽車を待ち受け、ほんの立ち話で共同製作でやることに決めてしまった。近代映画協会はスタッフ編成の責任を持ち、民芸は俳優を受け持ち、それぞれ150万円ずつ出し合ってやることにした。いくらかかるか予算もつかみで、150万円ずつでやろうというのだから乱暴な話であるが、こういうめくら滅法さが「原爆の子」を製作さしたのである。(「青春のモノクローム」80頁)
自主製作したい!この無謀な望みから、これまでにない新しい形態が作り上げられていく。
(1)、制作面での改革
きりつめた製作資金で作るため、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」必要があった。多少費用を切りつめるといったようなことではどうしようもなかった。まず、根本的に私たちの過去の常識を破ることだった。例えば、
(a)、宿屋は三食付きで500円(常識の3分の1)。しかし、単に安く作ることを目的としたのではない。その分、ロケ日数を粘ることができ、いい映画を作ることができるようにしたのだ。
(b)、現地の大工に頼んでロケ・セットを建てた(東京から大道具を連れて行くと費用がかさむ)。しかし、セットは普通の建築とはちがう。そこで、大工に教え込みながら建てた。
(c)、エキストラはすべて現地の人の協力で果す。
(2)、資金調達の方法:「二足のわらじを履く」
本当に作りたい作品の自主製作の資金を稼ぐために、他方で既存の映画会社の(下請けの)仕事もやるという「二足のわらじを履く」というやり方が明確になる。
しかし、同時に新たな課題も明らかになっていった。
(1)、配給(流通)への対応の不十分さ
この時は今なら考えられないことだが、配給のあてもなしに製作にかかった。いい映画を作れば配給などどこでも決まるというのんきな考えを持っていた。この時は、その世間知らずのがむしゃらさがよかった。不可能な自主製作を可能にしようというのだ、目をつぶって二階から飛び下りるようなことをしなければ何もできはしない。幸い、北星映画配給という独立系の配給会社が配給をやってくれた(のちに、ここが潰れ、共に辛酸を舐めることになる)。
(2)、計画製作の欠如
1つの企画を立て、それを実行に移し、その結果を次の糧にするという計画(マネジメント)製作は行なわれていなかった。ただ目の前の苦難を排して突破するばかりだった。それには惜しみなく精力を集中したが、高いところから独立プロを見る目は持たなかった。だから、製作費がいくらかかったかはっきりしない。別の言い方でいえば、
プロデューサー不在の製作体制
それも、芸術だけのプロデューサーでもなく経営だけのプロデューサーでもない、芸術と経営の両方に理解と精通しているプロデューサーのリーダーシップが必要だった。にもかかわらず、それが不在だった。これが致命的だった。
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この2つの課題を克服できなかったことが、起業(インディーズ)の経営をどんどん困難な状況に追い込んだ。
◆新藤兼人の起業形態の画期性
しかし、生きた現実は理論よりも数倍も豊富だった。
どんづまりまで追い込まれ、独立プロ解散を目の前にした結果、そこから再び、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」徹底した仕組みがまたひとつ生み出されてきた。それが、映画「裸の島」で見出した、
1、制作における集団創造方式の発見
2、配給における自主上映と海外配給の試み
1、集団創造方式
全製作費500万円で作ろうと決意。500万円!人気女優1本分のギャラ。(当時)普通の映画制作の10分の1。私たちはその中で、フィルムを買い、一昼夜かかるところまで汽車で行き、スタッフ一同で1ヶ月ロケをしようというのである。徹底的に削ぎ落とした最小スタッフを編成するしかなかった。
俳優2名、制作11名の総勢13名。世界最小のスタッフが1つの場所で合宿し、毎日ひとつ釜のメシを食う中で、それがリハーサルにもなるし、意思の疎通もよくなり、ワンカットの中にスタッフの全神経が集中が集中し、創造的な映画作りを可能にした。
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原理的に言えば、
それまでの撮影所中心の工場生産的な映画づくりを反省し、映画はその作品の必要に応じて、最も適当な人数でつくらねばならないという創造の原点に戻ること。
2、自主上映
全国を7つの地域に分け、各地の業者にその地域の上映権を売る方法を採用。これだと、少ない人数で、自主上映のシステムを立ち上げられる(旧独立系配給会社は、倒産したとき従業員を140名もかかえていた)。大手の配給会社以外にも映画配給の方法があるという新発見だった。
ただし、自主上映は一挙に成果があがるものではなく、また、業者によっては、作品を食い物にして、送金しない札付きもおり、課題は多かった。
3、海外配給
モスクワ映画祭でグランプリを取り、そこで、世界中に上映権を売って売りまくった。しめて64ヶ国。小国なら千ドル、フランスなどは3万ドル(当時、1080万円)で売れた。しかし、これが可能だったのは、ひとえに自主製作のおかげで、著作権を保有していたからだった(著作権が、そのためには資金調達がいかに重要か。チャップリンを見よ!)。雇われて作るのでは、海外配給も糞もない(「Shall we dance?」の周防正行を見よ)
◆新藤兼人の起業(=インディーズ)にはどのような壁があったのか。それをどのようにして克服しようとしたか。
1、流通へのコントロール
製作(生産)だけのインディーズではダメで、配給(流通)までコントロールできるようにならないとダメだった。
当初、あてにしていた国内の独立系の配給会社は、1年であっという間に経営破綻してしまった。
その原因は、ここでもまた、芸術のみならず経営の両方に精通している経営者の不在、つまり
(1)、経営方針に独立系らしい独創的な構想がなく、単に既成の大手配給会社の形だけを真似た、しかもカネのない組織だった。
(2)、にもかかわらず、経営陣は配給の経営に習熟しておらず、無能力であり、従業員の数だけは140名と既存の配給会社をしのぐ陣容で、人事も同士的なコネのもとに結ばれた馴れ合い人事だった。
(「わが独立プロ」96頁110頁)
2、資金調達
資金調達に関しては、集団創造方式に匹敵するような、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」画期的なシステムは見出されなかった。
この点、資金不足の問題は、資金調達そのものにより解決するのではなく、集団創造方式のような徹底して無駄を省いた制作方式を追求することをよって解決しようとしてきた。これが彼の長所でもあり、同時に限界ともなった(彼の終生の念願の「原爆の映画」では、20億円の製作費を、いくら徹底して無駄を省いた制作方式をもってしても克服することはできない)。
◆新藤兼人にとって仕事とは何か――そのイメージ――
1、仕事に没入する(「老人とつきあう」193頁)
映画製作期間中は、家庭も親も恋人とも縁を切る積りで、その間は自分を全部仕事にたたき込む、まるごと自分を投げ出して映画漬けにしなければならない。それをしないで、ただ知恵や討論だけでは、何もものにならない。
↑
では、「仕事に没入する」とは具体的にどういうことか?
疲労すること。それも、ちょっとぐらいの疲労ではなく、とにかく、とことん口も利けないぐらい疲労すること。そうしたら、1つの関門を通過することができる。
だから、一日中仕事をやってまだ元気だと思えたら、君たちはまだ通過していない。本当にものも言いたくないぐらい今日は疲労したといったとき、初めて映画のある一段を君自身で上がったのだ。
言い換えれば、仕事というのは元々そういうものであって、ただ考えただけであれも分かった、これも分かったというのでは本当は何も分からないのと同じなのです。
2、私の仕事の哲学(「老人とつきあう」195頁)
若者はみんな自分に自信がないから、何をやったらいいかが分からない。つまり、何かをやってみたけれども、手応えがないということです。しかし、シナリオをやってみたけれど、もう一度会社に勤めてみようか、或いは会社に行っても面白くないから、またシナリオをやってみようかというようなことをくり返していたのでは永遠にモノになりません。
つまり、人間は、知恵と討論だけではどこにも到達しない、実際に生きている体で何かを通過しなければいけないのです。これがいま私が若い人に言いたいことのひとつです。そうすると、
「ああ、そうですか。疲労することですか。疲労すればいいんですね」
と回りの若者はよく言います。
私は、「疲労してみろ」という。しかし、疲労なんてそう簡単にできやしない。たいていの人は、疲労する前にそれを避けてしまうものです。私の言いたいのはそうじゃない、夢中で突入して、気がついてみたら疲労しているということ、そういう状況が自分を自ら一段押し上げていくか、或いは一幕突き抜けることになるんだということです。
私の孫はいま22歳ですが、漫画をかいている。しかし、私は何も援助しない。精神的にこうやりなさい、ああやりなさいということも言わない。本人が探って、壁に突き当たって、挫折しなければしょうがない。挫折をして、挫折を乗り越えていく力を身につけなければモノにならないわけです。
3、薮の中に分け入る(「老人とつきあう」198頁)
私は、「二二会」という助監督たちの、参加自由の集まりを作って毎月22日に開いています。いろんな若者が来て話をするのですが、「今月、何の本を読んだんだ?」と聞くと、本なんか読んでないんですね。そんなことでシナリオを書くなんてずうずうしい、本もろくに読まないくせに、自分のどこが優れていると思っているんだ、と言ったりする。
彼らは髪を長くしたり、サングラスをかけたりなんかしている。しかし、サングラスをとって、髪を切ったら、もう単なるバカみたいな感じなんですね。若者の迫力もないし、わいわい言って、私のプロダクションにでも出入りしていれば、そのうちうまくいくんじゃないか、ちょっと映画を撮ったら成功するんじゃないかというような感じでいる。
しかし、仕事というものは、薮の中に分け入らなければ、ダメなんです。薮の中に入っていって、ほんとに噛み砕いて、足をキズだらけにして出てこなければモノにならないのです。そんなことをやらなければ一人前にメシも食えないんです。
4、仕事場とは(「老人とつきあう」17頁)
仕事というのは、いたわり合ったりしてできるものではないのです。一人ひとりの演技者とか、監督とか、スタッフというような人とのせめぎ合いというか、一種の闘いの場なのです。人は誰でもいつ死ぬか分かりませんが、その瞬間瞬間に力を出し切って、ぶつかり合って生きていくというようなこと以外にないのではないかと思います。
◆新藤兼人氏の個性・価値観
1、芸術家と経営者とのはざま(あらゆる起業につきまとう宿命的な二律背反的問題)で葛藤
独立プロの主宰者である私と創作者である私とは対立する矛盾の狭間に常に立たされていた。だが、創作者の立場を捨てた独立プロとは何だろう。‥独立プロが企業的経営者になったその瞬間から、独立プロではなくなるのだ。独立プロは創作者の集団なのである、めざす方向に向ってまっしぐらに突き進む以外に方法はない。(青春のモノクローム)
2、自己本位性の非常に強固な人
映画製作において、流行や時流のテーマを追うのではなく、あくまでも自己固有の問題意識に固執し、それを追求することをやめない。
たとえば、
大映京都に「愛妻物語」を相談するが、「話が地味だ、もっと興行的に間違いないものをやれ」と言われる。私は、監督に転向しようと思っているわけではないのだから、興行価値なんかどうでもよかった。『愛妻物語』だけがやりたいのだ。(青春のモノクローム)
◆参考文献:新藤兼人氏の著作から
シナリオの構成(宝文館出版)
シナリオ修行(ダビッド社)
ある映画監督の生涯-溝口健二の記録-(映人社)
岩波新書「ある映画監督-溝口健二と日本映画-」(岩波書店)
岩波新書「祭りの声-あるアメリカ移民の足跡-」(岩波書店)
岩波ジュニア新書「映画作りの実際」(岩波書店)
青春のモノクローム(朝日新聞社)
新藤兼人の足跡1~6(岩波書店)
ながい二人の道-乙羽信子とともに-(東京新聞出版局)
教養文庫「シナリオの話」
仕事場の出会い 監督とはシナリオとは女優とは(汐文社)
岩波同時代ライブラリー「仕事師列伝」(岩波書店)
講談社文庫「 うわっ、八十歳」(講談社)
人とシナリオ(シナリオ作家協会)
岩波ジュニア新書「老人とつきあう」(岩波書店)
岩波現代文庫「愛妻記」(岩波書店)
生きたい(岩波書店)
岩波現代文庫「三文役者の死 正伝殿山泰司」(岩波書店)
岩波新書「老人読書日記」(岩波書店)
ボケ老人の孤独な散歩(新潮社)
弔辞(岩波書店)