2015年7月25日土曜日

起業の原理について――映画監督新藤兼人の検討――(2003.12.12)


自分の思うことをやってみたい。
それが青春である。
思ったことを、夢を、現実の中にのばして行けたらどんなに愉しいだろう。
それが人間生きていることだと思う。
新藤兼人「太陽とカチンコ」

◆初めに何があったか。
 新藤兼人氏にとって、起業とは何か。青色発光ダイオードの中村修二氏と同様、
――「はじめに起業ありき」ではない。
――「はじめに望みありき」だった。

それは、彼の映画人生のスタートからして如実に示されている。

22歳:それまで熱心な映画ファンでもなく、敷居の高い思いをして兄の家に厄介になり、なすこともなくただブラブラ過していた彼が、ろくに看板も見ないで入った映画館で観た1本の映画(山中貞夫の「盤獄の一生」)にすっかり感動してしまった。盤獄という正直一徹の融通の利かない侍が、世間という壁にやたらと額をぶっつけていくという物語(どこぞやの愛媛の田舎の研究者の話みたいだ)が山中貞雄の才気溢れる新鮮な映像により表現され、彼の胸をゆさぶった。

これだ、と。
全身をしびれるように刺し貫くものがあった。
映画監督!
そう決め、それ以外のこと、どうしたら映画監督になれるのか、どんな方法で映画へ入るのか、そんなことはどうでもよかった、何をやるかが問題だったのだ、それが決まったのだ。(「青春のモノクローム」18頁)

彼はそのまま田舎から飛び出して、撮影所の門をたたいた。


◆では、どうして起業(インディーズ)に至ったのか。
――単に、自分の望みにこの上なく誠実であろうとしたからにすぎない。
  その望みを大切にしそれをどこまでも貫き通そうとしたら、生きた事件(­=生きた矛盾)を通じて、その先に、出口が待っていた。その出口に「「起業」という文字が刻まれていた(望みの追究が彼を起業に導いた)。

38歳:松竹脚本部に身を置き、念願の一流脚本家としての道を歩んでいる途上、彼が真に書きたいと思ったものと会社が作れという「儲かる物」との対立・矛盾が次第に(というより予定通り)深まり、「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」と首脳たちが問題にするに及んで、
よしだったら、松竹をやめよう
と決め、独立プロ「近代映画協会」を設立。

あとへは引けぬ気持ちだった。男の意地とかいう浪花節ではない。作家というものを考えた。会社と折れ合ってとどまったにしても、会社にしばられているかぎりは生涯つきまとう問題だと考えた。
決断が必要なのだ。(「新藤兼人の足跡5--闘い--」70頁)


新藤兼人の起業(=インディーズ)はどのような形態を取ったか。
――彼の望みにふさわしい形態をめざした。しかし、当然のことながら、<芸術性><商業性>との対立・矛盾を克服する理想的な形態を発見するまで、失敗と試行錯誤の連続だった。

起業形態の実態は、参加者の地位が対等な協同組合的なものだった。しかし、ことはそう簡単には行かなかった。なぜなら、いくら民主的な映画スタッフ集団を結成しても、第一に映画制作資金がなかった。また、作った映画を流通させ、エンドユーザの手元に届ける仕組みを全く持っていなかった。つまり、映画産業というシステム全体のうち、資金面と流通面をコントロールする力が全くなかったので、生産のところでいくら民主的な映画スタッフ集団を独立・結成しても、そのままでは、既存の大手映画会社の単なる「下請け」にとどまるだけだった。
 しかも、当初は、既存の大手映画会社に弓を引いた生意気な大反逆人として(あたかも戦国時代の一向一揆衆のように憎まれ)、彼らの「下請け」の仕事すらさせてもらえなかった。
 しかし、必死の努力の甲斐があって、大映ととにもかくも仕事をすることができるまで漕ぎ着けた(昭和2526年に製作した「偽れる盛装」「自由学校」「源氏物語」がヒットした)。
しかし、27年企画した「原爆の子」「夜明け前」が大映に拒否され、ここで再び、<芸術性><商業性>との対立・矛盾に直面し、外見は独立プロでフリーとはいえ、その中身は会社の意向に沿って仕事をする「下請け」にすぎないという壁に思い切りぶつかった。

自主製作
 自主製作をしなければ壁は破れないと思った。カネを計算していては怖くて何もやれない。無計画でぶっつからねば何もできない。民芸の重ちゃん(宇野重吉)に相談した。民芸には俳優がいるし、共同製作でやればできると思った。‥‥わたしは横浜駅で重ちゃんたちの汽車を待ち受け、ほんの立ち話で共同製作でやることに決めてしまった。近代映画協会はスタッフ編成の責任を持ち、民芸は俳優を受け持ち、それぞれ150万円ずつ出し合ってやることにした。いくらかかるか予算もつかみで、150万円ずつでやろうというのだから乱暴な話であるが、こういうめくら滅法さが「原爆の子」を製作さしたのである。(「青春のモノクローム」80頁)

 自主製作したい!この無謀な望みから、これまでにない新しい形態が作り上げられていく。
(1)、制作面での改革
 きりつめた製作資金で作るため、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」必要があった。多少費用を切りつめるといったようなことではどうしようもなかった。まず、根本的に私たちの過去の常識を破ることだった。例えば、
(a)、宿屋は三食付きで500円(常識の3分の1)。しかし、単に安く作ることを目的としたのではない。その分、ロケ日数を粘ることができ、いい映画を作ることができるようにしたのだ。
(b)、現地の大工に頼んでロケ・セットを建てた(東京から大道具を連れて行くと費用がかさむ)。しかし、セットは普通の建築とはちがう。そこで、大工に教え込みながら建てた。
(c)、エキストラはすべて現地の人の協力で果す。
(2)、資金調達の方法:「二足のわらじを履く」
 本当に作りたい作品の自主製作の資金を稼ぐために、他方で既存の映画会社の(下請けの)仕事もやるという「二足のわらじを履く」というやり方が明確になる。

 しかし、同時に新たな課題も明らかになっていった。
(1)、配給(流通)への対応の不十分さ
この時は今なら考えられないことだが、配給のあてもなしに製作にかかった。いい映画を作れば配給などどこでも決まるというのんきな考えを持っていた。この時は、その世間知らずのがむしゃらさがよかった。不可能な自主製作を可能にしようというのだ、目をつぶって二階から飛び下りるようなことをしなければ何もできはしない。幸い、北星映画配給という独立系の配給会社が配給をやってくれた(のちに、ここが潰れ、共に辛酸を舐めることになる)。
(2)、計画製作の欠如
1つの企画を立て、それを実行に移し、その結果を次の糧にするという計画(マネジメント)製作は行なわれていなかった。ただ目の前の苦難を排して突破するばかりだった。それには惜しみなく精力を集中したが、高いところから独立プロを見る目は持たなかった。だから、製作費がいくらかかったかはっきりしない。別の言い方でいえば、
プロデューサー不在の製作体制
それも、芸術だけのプロデューサーでもなく経営だけのプロデューサーでもない、芸術と経営の両方に理解と精通しているプロデューサーのリーダーシップが必要だった。にもかかわらず、それが不在だった。これが致命的だった。
     ↑
この2つの課題を克服できなかったことが、起業(インディーズ)の経営をどんどん困難な状況に追い込んだ。

◆新藤兼人の起業形態の画期性
しかし、生きた現実は理論よりも数倍も豊富だった。
どんづまりまで追い込まれ、独立プロ解散を目の前にした結果、そこから再び、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」徹底した仕組みがまたひとつ生み出されてきた。それが、映画「裸の島」で見出した、
1、制作における集団創造方式の発見
2、配給における自主上映海外配給の試み

1、集団創造方式
全製作費500万円で作ろうと決意。500万円!人気女優1本分のギャラ。(当時)普通の映画制作の10分の1。私たちはその中で、フィルムを買い、一昼夜かかるところまで汽車で行き、スタッフ一同で1ヶ月ロケをしようというのである。徹底的に削ぎ落とした最小スタッフを編成するしかなかった。
俳優2名、制作11名の総勢13名。世界最小のスタッフが1つの場所で合宿し、毎日ひとつ釜のメシを食う中で、それがリハーサルにもなるし、意思の疎通もよくなり、ワンカットの中にスタッフの全神経が集中が集中し、創造的な映画作りを可能にした。
      ↑
原理的に言えば、
それまでの撮影所中心の工場生産的な映画づくりを反省し、映画はその作品の必要に応じて、最も適当な人数でつくらねばならないという創造の原点に戻ること。

2、自主上映
全国を7つの地域に分け、各地の業者にその地域の上映権を売る方法を採用。これだと、少ない人数で、自主上映のシステムを立ち上げられる(旧独立系配給会社は、倒産したとき従業員を140名もかかえていた)。大手の配給会社以外にも映画配給の方法があるという新発見だった。

ただし、自主上映は一挙に成果があがるものではなく、また、業者によっては、作品を食い物にして、送金しない札付きもおり、課題は多かった。

3、海外配給
 モスクワ映画祭でグランプリを取り、そこで、世界中に上映権を売って売りまくった。しめて64ヶ国。小国なら千ドル、フランスなどは3万ドル(当時、1080万円)で売れた。しかし、これが可能だったのは、ひとえに自主製作のおかげで、著作権を保有していたからだった(著作権が、そのためには資金調達がいかに重要か。チャップリンを見よ!)。雇われて作るのでは、海外配給も糞もない(「Shall we dance?」の周防正行を見よ)


◆新藤兼人の起業(=インディーズ)にはどのような壁があったのか。それをどのようにして克服しようとしたか。
1、流通へのコントロール
 製作(生産)だけのインディーズではダメで、配給(流通)までコントロールできるようにならないとダメだった。
当初、あてにしていた国内の独立系の配給会社は、1年であっという間に経営破綻してしまった。
その原因は、ここでもまた、芸術のみならず経営の両方に精通している経営者の不在、つまり
(1)、経営方針に独立系らしい独創的な構想がなく、単に既成の大手配給会社の形だけを真似た、しかもカネのない組織だった。
(2)、にもかかわらず、経営陣は配給の経営に習熟しておらず、無能力であり、従業員の数だけは140名と既存の配給会社をしのぐ陣容で、人事も同士的なコネのもとに結ばれた馴れ合い人事だった。
(「わが独立プロ」96110頁)

2、資金調達
資金調達に関しては、集団創造方式に匹敵するような、「これまでの映画制作の常識を根本的に破る」画期的なシステムは見出されなかった。
この点、資金不足の問題は、資金調達そのものにより解決するのではなく、集団創造方式のような徹底して無駄を省いた制作方式を追求することをよって解決しようとしてきた。これが彼の長所でもあり、同時に限界ともなった(彼の終生の念願の「原爆の映画」では、20億円の製作費を、いくら徹底して無駄を省いた制作方式をもってしても克服することはできない)。   


新藤兼人にとって仕事とは何か――そのイメージ――
1、仕事に没入する(「老人とつきあう」193頁)
 映画製作期間中は、家庭も親も恋人とも縁を切る積りで、その間は自分を全部仕事にたたき込む、まるごと自分を投げ出して映画漬けにしなければならない。それをしないで、ただ知恵や討論だけでは、何もものにならない。
    ↑
 では、「仕事に没入する」とは具体的にどういうことか?
疲労すること。それも、ちょっとぐらいの疲労ではなく、とにかく、とことん口も利けないぐらい疲労すること。そうしたら、1つの関門を通過することができる。
だから、一日中仕事をやってまだ元気だと思えたら、君たちはまだ通過していない。本当にものも言いたくないぐらい今日は疲労したといったとき、初めて映画のある一段を君自身で上がったのだ。
 言い換えれば、仕事というのは元々そういうものであって、ただ考えただけであれも分かった、これも分かったというのでは本当は何も分からないのと同じなのです。

2、私の仕事の哲学(「老人とつきあう」195頁)
 若者はみんな自分に自信がないから、何をやったらいいかが分からない。つまり、何かをやってみたけれども、手応えがないということです。しかし、シナリオをやってみたけれど、もう一度会社に勤めてみようか、或いは会社に行っても面白くないから、またシナリオをやってみようかというようなことをくり返していたのでは永遠にモノになりません。
つまり、人間は、知恵と討論だけではどこにも到達しない、実際に生きている体で何かを通過しなければいけないのです。これがいま私が若い人に言いたいことのひとつです。そうすると、
「ああ、そうですか。疲労することですか。疲労すればいいんですね」
と回りの若者はよく言います。
 私は、「疲労してみろ」という。しかし、疲労なんてそう簡単にできやしない。たいていの人は、疲労する前にそれを避けてしまうものです。私の言いたいのはそうじゃない、夢中で突入して、気がついてみたら疲労しているということ、そういう状況が自分を自ら一段押し上げていくか、或いは一幕突き抜けることになるんだということです。
 私の孫はいま22歳ですが、漫画をかいている。しかし、私は何も援助しない。精神的にこうやりなさい、ああやりなさいということも言わない。本人が探って、壁に突き当たって、挫折しなければしょうがない。挫折をして、挫折を乗り越えていく力を身につけなければモノにならないわけです。

3、薮の中に分け入る(「老人とつきあう」198頁)
私は、「二二会」という助監督たちの、参加自由の集まりを作って毎月22日に開いています。いろんな若者が来て話をするのですが、「今月、何の本を読んだんだ?」と聞くと、本なんか読んでないんですね。そんなことでシナリオを書くなんてずうずうしい、本もろくに読まないくせに、自分のどこが優れていると思っているんだ、と言ったりする。
彼らは髪を長くしたり、サングラスをかけたりなんかしている。しかし、サングラスをとって、髪を切ったら、もう単なるバカみたいな感じなんですね。若者の迫力もないし、わいわい言って、私のプロダクションにでも出入りしていれば、そのうちうまくいくんじゃないか、ちょっと映画を撮ったら成功するんじゃないかというような感じでいる。
しかし、仕事というものは、薮の中に分け入らなければ、ダメなんです。薮の中に入っていって、ほんとに噛み砕いて、足をキズだらけにして出てこなければモノにならないのです。そんなことをやらなければ一人前にメシも食えないんです。

4、仕事場とは(「老人とつきあう」17頁)
 仕事というのは、いたわり合ったりしてできるものではないのです。一人ひとりの演技者とか、監督とか、スタッフというような人とのせめぎ合いというか、一種の闘いの場なのです。人は誰でもいつ死ぬか分かりませんが、その瞬間瞬間に力を出し切って、ぶつかり合って生きていくというようなこと以外にないのではないかと思います。


新藤兼人氏の個性・価値観
1、芸術家と経営者とのはざま(あらゆる起業につきまとう宿命的な二律背反的問題)で葛藤
独立プロの主宰者である私と創作者である私とは対立する矛盾の狭間に常に立たされていた。だが、創作者の立場を捨てた独立プロとは何だろう。‥独立プロが企業的経営者になったその瞬間から、独立プロではなくなるのだ。独立プロは創作者の集団なのである、めざす方向に向ってまっしぐらに突き進む以外に方法はない。(青春のモノクローム)

2、自己本位性の非常に強固な人
 映画製作において、流行や時流のテーマを追うのではなく、あくまでも自己固有の問題意識に固執し、それを追求することをやめない。
 たとえば、
 大映京都に「愛妻物語」を相談するが、「話が地味だ、もっと興行的に間違いないものをやれ」と言われる。私は、監督に転向しようと思っているわけではないのだから、興行価値なんかどうでもよかった。『愛妻物語』だけがやりたいのだ。(青春のモノクローム)


参考文献:新藤兼人氏の著作から
シナリオの構成(宝文館出版)
シナリオ修行(ダビッド社)
ある映画監督の生涯-溝口健二の記録-(映人社)
岩波新書「ある映画監督-溝口健二と日本映画-」(岩波書店)
岩波新書「祭りの声-あるアメリカ移民の足跡-」(岩波書店)
岩波ジュニア新書「映画作りの実際」(岩波書店)
青春のモノクローム(朝日新聞社)
新藤兼人の足跡1~6(岩波書店)
ながい二人の道-乙羽信子とともに-(東京新聞出版局)
教養文庫「シナリオの話」
仕事場の出会い 監督とはシナリオとは女優とは(汐文社)
岩波同時代ライブラリー「仕事師列伝」(岩波書店)
講談社文庫「 うわっ、八十歳」(講談社)
人とシナリオ(シナリオ作家協会)
岩波ジュニア新書「老人とつきあう」(岩波書店)
岩波現代文庫「愛妻記」(岩波書店)
生きたい(岩波書店)
岩波現代文庫「三文役者の死 正伝殿山泰司」(岩波書店)
岩波新書「老人読書日記」(岩波書店)
ボケ老人の孤独な散歩(新潮社)
弔辞(岩波書店)


2015年6月15日月曜日

【理由】(2015.6.25)


1、市民運動の理念
市民運動の理念は、憲法の基本原理である「個人の尊厳」つまり、自立した個人の尊重です。そうした個人による共同行動の理念も、従って、自立した個人の対等な関係です。個人の尊重は相手との間に対等な(フラットな)関係を要請するからです。人をコマのように道具として使うピラミッド型組織は市民運動の理念と相容れないものです。自立した個人の対等な関係――このことを、2011年6月の疎開裁判スタート以来、この裁判支援者たちは無意識のうちに共有していたと思います。つまり、裁判支援者は既成の組織(政党・労組・市民運動の組織)とは無関係な、個々の市民の自発的な参加によるものであること、裁判支援・非暴力という2点で同意できれば「来る者拒まず、去る者追わず」という共同行動&排除の否定を理念としてきた。対等な(フラットな)関係というのは、思ったことは誰でも自由にものが言え、遠慮気兼ねの要らない、自由闊達な雰囲気を大事にすることにつながります。遠慮気兼ねなくものが言えない窮屈な空気の場所というのは、対等な(フラットな)関係が損なわれていて、上下関係に立つピラミッド型組織が幅を利かせているからで、市民運動が空洞化し、形骸化するときです。

2、昨今、ふくしま集団疎開の会は会員もいないし、規約もない、つかみ所のない得体の知れない組織ではないかという感想が寄せられました。一見尤もなことで、それで改めて振り返ってみたら、この特徴こそ、実はこの会が「組織ではなく、行動のための場」として機能していることに由来する必然的な特徴なのだと分かりました。現在、ふくしま集団疎開の会がほかの団体や「子ども脱被ばく裁判の会」とどういう関係に立つかという問題が提起されています。それはただの「組織のあり方」という問題にとどまりません。2012年7月27日()以来マグマのように絶えることなく活動を続けてきた「ふくしま疎開裁判の会」がなぜ出現しえたのか、それは私にとって、市民運動に足を踏み入れて以来(まだ十年足らずですが)経験したことのない奇跡のような出来事です。このマグマのような活動を継続してきた「ふくしま疎開裁判の会」と、実質、会員もいない、規約もないというその独特な運営方法は切っても切れない関係にあることがようやく見えてきました。もしこの会が従来型の組織原則である中央集権型のピラミッド組織で運営されていたら、2012年8月以降の出来事を経験してもマグマのような活動は起きなかったと思います。その意味で、これは「ふくしま疎開裁判の会」の存在意義を再発見する絶好の機会でもあります。それは同時に、「ふくしま疎開裁判の会」の限界や課題を自覚する機会でもあります。そこから、「ふくしま疎開裁判の会」が次の進化の扉を開けるために何が必要かが見えてくる筈です。
少し長くなりますが、以下は、これらの問題提起としての私見・コメントです。

)それまで、集会、学習会など旧来のスタイルで支援・広報活動をしてきたのに対し、この日から初めて街頭に出て、道行く人たちに向かって裁判への支援活動を訴える街頭アクションがスタート。支援者も急増し、アクションは現在まで継続している。->疎開裁判の会のふり返り2012年7月27日

3、「ふくしま疎開裁判の会」参加の原点
 これまで、「ふくしま疎開裁判の会」に参加した人たちの多くに共通するものは、ひとりひとりが自分なりの自主性・主体性をもって、情熱と意欲をもってアクション・支援に参加したことです。そして、未熟や不十分な面があったにせよ、この会は、自分の気のあった者だけで仲間内でやるのではなく、性格的に合わない人とでも誰であれ、参加者は誰でもめいめいの情熱と意欲が最大限発揮できるように、排除なしに運営を心がけてきたことです。誰か特定の人を責任者に指名して固定化することなく、そのつど、そのつど、最も熱心な人がおのずとアクションの中心になるという「この指止まれ」方式の「中心のないネットワーク」で運営してきました。
 一見、危なかっしくて見てられないと思えたかもしれませんが、しかし4年間経過した時、このような運営が持続できたときが、一部の指導者が中央集権的に牛耳る「弱い民主主義」ではない、万人の参加者がローテーションで運営する「強い民主主義」であり、市民組織として最強なのではないかと次第に確信するようになりました。

4、私たちに先行する市民運動のモデル(その1)
 そう思って、過去の市民運動を見た時、既に「ふくしま疎開裁判の会」のモデルとなるような先行例が少なくとも2つあることに気がつきました。
ひとつが小田実らが始めた「ベ平連」です。
◆「べ平連」運動の三原則
①言い出した人間がする、
 ②人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何とかしろ)、
 ③好きなことは何でもやれ
「べ平連」の概要
■「1965年に旗揚げしたベトナム反戦運動。組織動員はなく、ベトナム反戦に賛同すれば、思想傾向や参加脱退、運動方法は自由とされた。「組織ではなく運動である」とうたい、中央集権的な本部-支部制度をとらず、「ベ平連」を名乗って運動を始めたければ、東京ベ平連の許可なく名前を使ってよいというフランチャイズ制をとった。最盛期の69年には全国で約360のベ平連が存在し、地名や大学名を冠した「宮崎ベ平連」「龍谷大学ベ平連」などのほか、女性有志の「レディベ平連」や外国人の「外人ベ平連」があり、一人で「ひとりベ平連」を名乗る例もあったという。米軍の北ベトナム爆撃反対が8割にのぼった当時の状況下、共産党や新左翼の組織統制と思想統一を嫌う学生や市民が参加した。
■「ベトナム反戦の市民運動グループ。正式には「ベトナムに平和を!市民連合」といい、代表は作家の小田実。1965年(昭和40425日発足。①ベトナムに平和を、②ベトナムはベトナム人の手に、③日本政府は戦争に協力するな、を目標に掲げたが、規約や会員制度などをもたず、行動に参加する者をもってベ平連とみなすという、新しい組織形態を創出、その後の各種市民運動の基礎をきずいた。徹夜ティーチイン、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告、米脱走兵援助、定例デモ、『週刊アンポ』創刊、反安保の大共同行動、基地内での米兵反戦運動の組織化など、ユニークで多彩な行動を展開、多くの知識人、市民、青年を結集、最盛期には全国で500近くのベ平連グループが活動した。
■誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく。誰でも入れる開かれた集団をスローガンにかかげるベ平連にとって、市民の定義はそれで十分だった。①言い出した人間がする、②人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何とかしろ)、③好きなことは何でもやれ――がベ平連運動の三原則であったし、また、ベ平連は二人集まればそう名乗ることができた。
■自分の意志で行動するのが市民であることの必要条件なら、まず、市民がある。労働者や学生も市民になることができる。
 このように定義することによって、ベ平連は従来型の労働運動や政治的なイデオロギーにたつ運動と一線を画し、それらと断絶することができた。政治的なイデオロギーから自由になったことは、一方では人びとが日常的な生き方と切れないかたちで運動しつづける「持続」を可能にし、・・他方では参加の意志をもつ個人が責任を負いうる限りで行動する独自な運動スタイルを定着させていく。政党や労組、宗教団体などの既成組織に組み込まれることなく、ベ平連運動に参加する無党派市民がこうした市民の定義のもとで登場してくるのである。
 誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い――市民運動としてのベ平連の原則は、その後の環境や公害、人権問題をめぐる多種多様な「新しい社会運動」に採用されることになる。

5、私たちに先行する市民運動のモデル(その2)
 もう1つが日本史上最大の市民運動である原水禁運動の発端、杉並で始まった水爆禁止署名運動)です。
■瞬く間に集まった署名-その数は
運動の中心であった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会 (安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に 取り組んでいった。婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言う。納得して署名してもらうという丁寧さだったが、一人で何千と言う署名を集めた人たちもいた。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものであった。
 1954513日から始まった署名運動は、620日に259,508名に、624日には265,124名に達するという数字が記録されている。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数である。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示している。→出典
■二、原水禁運動の爆発的発展
ビキニ事件と放射能の脅威
 日本の原水爆禁止運動は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験を直接の契機としてまきおこった。20メガトンの水爆の実験によって発生した「死の灰」は、100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これを浴びた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・吐き気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、ついに手当の甲斐なく亡くなった。「死の灰」の恐怖はそればかりでない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。
 焼津、三崎港、東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って“マグロ恐慌状態”が生じた。東京の中央卸売市場はコレラの流行以来はじめてセリを中止するに至った。
また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクの中まで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックをあたえた。
 そしてこのことが人びとにあらためて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人一人の「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのである。
 「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃え広がり、あらゆる市町村会議で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。
 そして各地域や職場で自然発生的に始められた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。
原水禁世界大会の開催
 1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、と規定した。
 そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表五千名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙をながす光景さえみられた。
 第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが、「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」である。
原爆反対の声は政府を動かし、世界に響く
 3000万人をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動であった。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞく反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や社会団体(日赤など)や水産業界もこの運動を支持したのであった。
 これらの世論の高まりは遂に日本政府をも動かすに至った。
 かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたが、鳩山首相は「原爆禁止に協力する」と言明するにいたった。
 1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地に広がった。
 1955年1月には、ウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーン・アピール)が採択された。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのである。

6、 原水爆禁止運動が残した大きな課題
 このように、水爆禁止署名運動から日本史上最大の市民運動である原水爆禁止運動が生まれました、しかし、この画期的な原水爆禁止運動は、その後、市民運動の原点に立って運営することができず、紆余曲折を経て3つに分裂し、その対立抗争に多大なエネルギーを消耗することを強いられました。日本史上最大の市民運動をもたらしたこの運動は同時に日本史上最大の市民運動の悲劇ももたらしました。
 この分裂と悲劇の原因を分析・総括した文書の1つが藤原修「原水爆禁止運動の分裂をめぐって――安部一成の平和運動論――」です。

 私がこの文書に注目したのは、それが「原水禁運動の分裂は、運動の組織、進め方、理念にわたって、平和運動のあるべき姿についての根源的な問いかけを運動参加者らに突きつけるものであった。」からです。それは「命と平和」を守るといった普遍的な市民運動に取り組む者にとって、避けて通れない問題だからです。
 著者は、市民平和運動家の安部一成の言葉を引用して、分裂したそれぞれの組織に共通する特徴として、ピラミッド型組織と上からの中央集権的な組織運営を指摘しています。
そして、この特徴が現場からの燃え盛るような情熱と行動に支えられて生まれた原水爆禁止運動を形ばかりのイベント主義と組織による動員主義に変質させ、形骸化・衰退して、分裂を引き起こす要因となったと分析しています。これに対し、安部一成は、改めて、「自立した個人のひとりひとりの主体性・自主性と情熱・意欲に裏打ちされて参加する行動」という市民運動の活力の源泉に立ち返り、原水爆禁止運動の当事者(被曝者やお母さん)たちがいる現場から再び統一を作り出そうと努力しますが、ピラミッド型組織の問題点を自覚できない旧来の活動家たちと一部の当事者による排斥的な運営のやり方が分裂の修復を困難にしました。比喩的に言えば、戦国時代の新興勢力である信長や信玄が上から支配を行う戦国大名として出現・対立したのに対し、これらに抗して、下から草の根の民衆支配を行う一向一揆衆が出現したような構造です。
 私自身、安部一成の分析すべてに賛成できる訳ではないし、分析の不徹底さに不満を感じることがありますが、不勉強を棚に上げて言うと、今までここまで市民運動内部の病巣を真正面から掘り下げた文書に接したことがなく、正直、目からうろこでした。それができた最大の原因は、彼が正しい観点を保持していたからだと思います――市民運動の活力の源泉に立ち返り、運動の当事者たちがいる現場から市民運動を再構築するという。

 また、原水禁運動の分裂の背景には、原水爆(核兵器)の禁止という誰もが異論のないゴールを掲げる行動(原水爆実験禁止署名)に賛同した多数の市民を、そのゴールに向かって一歩ずつ進む上で具体的な行動の場面でも引き続き賛同を勝ち取るためにどうしたらよいのか、という市民運動にとって避けて通れない課題の困難さがあります。
 私たちもまた、「国は汚染地の子どもたちの命と健康を守れ」という誰もが異論のないゴールを掲げる市民運動です。草の根の「ベ平連」の精神を持ち、努力と創意工夫しだいで、今後、多数の市民の賛同は可能です。しかし、真の困難さはその次にあります――そのゴールに向かって一歩ずつ進む上で具体的な行動の場面でも引き続き多数の市民の賛同を勝ち取るためにどうしたらよいのか、と。それができないとき、私たちの市民運動も四散五裂の可能性があります。私たちは慎重に間違わずに一歩一歩前進する必要があります。
 ともあれ、私たちは、安部一成の当時に比べ、その後、「べ平連」や下からの民主主義である「ワーカーズコレクティブ」といった出来事を経験しています。これらを学ぶことにより、原水禁運動の分裂の悲劇を反復しないように対策が可能です。そのための条件について、ともに考えていきたいと思っています。