1、市民運動の理念
市民運動の理念は、憲法の基本原理である「個人の尊厳」つまり、自立した個人の尊重です。そうした個人による共同行動の理念も、従って、自立した個人の対等な関係です。個人の尊重は相手との間に対等な(フラットな)関係を要請するからです。人をコマのように道具として使うピラミッド型組織は市民運動の理念と相容れないものです。自立した個人の対等な関係――このことを、2011年6月の疎開裁判スタート以来、この裁判支援者たちは無意識のうちに共有していたと思います。つまり、裁判支援者は既成の組織(政党・労組・市民運動の組織)とは無関係な、個々の市民の自発的な参加によるものであること、裁判支援・非暴力という2点で同意できれば「来る者拒まず、去る者追わず」という共同行動&排除の否定を理念としてきた。対等な(フラットな)関係というのは、思ったことは誰でも自由にものが言え、遠慮気兼ねの要らない、自由闊達な雰囲気を大事にすることにつながります。遠慮気兼ねなくものが言えない窮屈な空気の場所というのは、対等な(フラットな)関係が損なわれていて、上下関係に立つピラミッド型組織が幅を利かせているからで、市民運動が空洞化し、形骸化するときです。
2、昨今、ふくしま集団疎開の会は会員もいないし、規約もない、つかみ所のない得体の知れない組織ではないかという感想が寄せられました。一見尤もなことで、それで改めて振り返ってみたら、この特徴こそ、実はこの会が「組織ではなく、行動のための場」として機能していることに由来する必然的な特徴なのだと分かりました。現在、ふくしま集団疎開の会がほかの団体や「子ども脱被ばく裁判の会」とどういう関係に立つかという問題が提起されています。それはただの「組織のあり方」という問題にとどまりません。2012年7月27日(※)以来マグマのように絶えることなく活動を続けてきた「ふくしま疎開裁判の会」がなぜ出現しえたのか、それは私にとって、市民運動に足を踏み入れて以来(まだ十年足らずですが)経験したことのない奇跡のような出来事です。このマグマのような活動を継続してきた「ふくしま疎開裁判の会」と、実質、会員もいない、規約もないというその独特な運営方法は切っても切れない関係にあることがようやく見えてきました。もしこの会が従来型の組織原則である中央集権型のピラミッド組織で運営されていたら、2012年8月以降の出来事を経験してもマグマのような活動は起きなかったと思います。その意味で、これは「ふくしま疎開裁判の会」の存在意義を再発見する絶好の機会でもあります。それは同時に、「ふくしま疎開裁判の会」の限界や課題を自覚する機会でもあります。そこから、「ふくしま疎開裁判の会」が次の進化の扉を開けるために何が必要かが見えてくる筈です。
少し長くなりますが、以下は、これらの問題提起としての私見・コメントです。
(※)それまで、集会、学習会など旧来のスタイルで支援・広報活動をしてきたのに対し、この日から初めて街頭に出て、道行く人たちに向かって裁判への支援活動を訴える街頭アクションがスタート。支援者も急増し、アクションは現在まで継続している。->疎開裁判の会のふり返り「2012年7月27日」
3、「ふくしま疎開裁判の会」参加の原点
これまで、「ふくしま疎開裁判の会」に参加した人たちの多くに共通するものは、ひとりひとりが自分なりの自主性・主体性をもって、情熱と意欲をもってアクション・支援に参加したことです。そして、未熟や不十分な面があったにせよ、この会は、自分の気のあった者だけで仲間内でやるのではなく、性格的に合わない人とでも誰であれ、参加者は誰でもめいめいの情熱と意欲が最大限発揮できるように、排除なしに運営を心がけてきたことです。誰か特定の人を責任者に指名して固定化することなく、そのつど、そのつど、最も熱心な人がおのずとアクションの中心になるという「この指止まれ」方式の「中心のないネットワーク」で運営してきました。
一見、危なかっしくて見てられないと思えたかもしれませんが、しかし4年間経過した時、このような運営が持続できたときが、一部の指導者が中央集権的に牛耳る「弱い民主主義」ではない、万人の参加者がローテーションで運営する「強い民主主義」であり、市民組織として最強なのではないかと次第に確信するようになりました。
4、私たちに先行する市民運動のモデル(その1)
そう思って、過去の市民運動を見た時、既に「ふくしま疎開裁判の会」のモデルとなるような先行例が少なくとも2つあることに気がつきました。
ひとつが小田実らが始めた「ベ平連」です。
◆「べ平連」運動の三原則
①言い出した人間がする、
①言い出した人間がする、
②人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何とかしろ)、
③好きなことは何でもやれ
③好きなことは何でもやれ
◆「べ平連」の概要
■「1965年に旗揚げしたベトナム反戦運動。組織動員はなく、ベトナム反戦に賛同すれば、思想傾向や参加脱退、運動方法は自由とされた。「組織ではなく運動である」とうたい、中央集権的な本部-支部制度をとらず、「ベ平連」を名乗って運動を始めたければ、東京ベ平連の許可なく名前を使ってよいというフランチャイズ制をとった。最盛期の69年には全国で約360のベ平連が存在し、地名や大学名を冠した「宮崎ベ平連」「龍谷大学ベ平連」などのほか、女性有志の「レディベ平連」や外国人の「外人ベ平連」があり、一人で「ひとりベ平連」を名乗る例もあったという。米軍の北ベトナム爆撃反対が8割にのぼった当時の状況下、共産党や新左翼の組織統制と思想統一を嫌う学生や市民が参加した。
■「1965年に旗揚げしたベトナム反戦運動。組織動員はなく、ベトナム反戦に賛同すれば、思想傾向や参加脱退、運動方法は自由とされた。「組織ではなく運動である」とうたい、中央集権的な本部-支部制度をとらず、「ベ平連」を名乗って運動を始めたければ、東京ベ平連の許可なく名前を使ってよいというフランチャイズ制をとった。最盛期の69年には全国で約360のベ平連が存在し、地名や大学名を冠した「宮崎ベ平連」「龍谷大学ベ平連」などのほか、女性有志の「レディベ平連」や外国人の「外人ベ平連」があり、一人で「ひとりベ平連」を名乗る例もあったという。米軍の北ベトナム爆撃反対が8割にのぼった当時の状況下、共産党や新左翼の組織統制と思想統一を嫌う学生や市民が参加した。
■「ベトナム反戦の市民運動グループ。正式には「ベトナムに平和を!市民連合」といい、代表は作家の小田実。1965年(昭和40)4月25日発足。①ベトナムに平和を、②ベトナムはベトナム人の手に、③日本政府は戦争に協力するな、を目標に掲げたが、規約や会員制度などをもたず、行動に参加する者をもってベ平連とみなすという、新しい組織形態を創出、その後の各種市民運動の基礎をきずいた。徹夜ティーチイン、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告、米脱走兵援助、定例デモ、『週刊アンポ』創刊、反安保の大共同行動、基地内での米兵反戦運動の組織化など、ユニークで多彩な行動を展開、多くの知識人、市民、青年を結集、最盛期には全国で500近くのベ平連グループが活動した。
■誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく。誰でも入れる開かれた集団をスローガンにかかげるベ平連にとって、市民の定義はそれで十分だった。①言い出した人間がする、②人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何とかしろ)、③好きなことは何でもやれ――がベ平連運動の三原則であったし、また、ベ平連は二人集まればそう名乗ることができた。
■自分の意志で行動するのが市民であることの必要条件なら、まず、市民がある。労働者や学生も市民になることができる。
このように定義することによって、ベ平連は従来型の労働運動や政治的なイデオロギーにたつ運動と一線を画し、それらと断絶することができた。政治的なイデオロギーから自由になったことは、一方では人びとが日常的な生き方と切れないかたちで運動しつづける「持続」を可能にし、・・他方では参加の意志をもつ個人が責任を負いうる限りで行動する独自な運動スタイルを定着させていく。政党や労組、宗教団体などの既成組織に組み込まれることなく、ベ平連運動に参加する無党派市民がこうした市民の定義のもとで登場してくるのである。
誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い――市民運動としてのベ平連の原則は、その後の環境や公害、人権問題をめぐる多種多様な「新しい社会運動」に採用されることになる。
このように定義することによって、ベ平連は従来型の労働運動や政治的なイデオロギーにたつ運動と一線を画し、それらと断絶することができた。政治的なイデオロギーから自由になったことは、一方では人びとが日常的な生き方と切れないかたちで運動しつづける「持続」を可能にし、・・他方では参加の意志をもつ個人が責任を負いうる限りで行動する独自な運動スタイルを定着させていく。政党や労組、宗教団体などの既成組織に組み込まれることなく、ベ平連運動に参加する無党派市民がこうした市民の定義のもとで登場してくるのである。
誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い――市民運動としてのベ平連の原則は、その後の環境や公害、人権問題をめぐる多種多様な「新しい社会運動」に採用されることになる。
5、私たちに先行する市民運動のモデル(その2)
もう1つが日本史上最大の市民運動である原水禁運動の発端、杉並で始まった水爆禁止署名運動)です。
■瞬く間に集まった署名-その数は
運動の中心であった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会 (安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に 取り組んでいった。婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言う。納得して署名してもらうという丁寧さだったが、一人で何千と言う署名を集めた人たちもいた。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものであった。
1954年5月13日から始まった署名運動は、6月20日に259,508名に、6月24日には265,124名に達するという数字が記録されている。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数である。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示している。→出典
運動の中心であった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会 (安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に 取り組んでいった。婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言う。納得して署名してもらうという丁寧さだったが、一人で何千と言う署名を集めた人たちもいた。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものであった。
1954年5月13日から始まった署名運動は、6月20日に259,508名に、6月24日には265,124名に達するという数字が記録されている。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数である。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示している。→出典
■二、原水禁運動の爆発的発展
ビキニ事件と放射能の脅威
日本の原水爆禁止運動は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験を直接の契機としてまきおこった。20メガトンの水爆の実験によって発生した「死の灰」は、100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これを浴びた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・吐き気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、ついに手当の甲斐なく亡くなった。「死の灰」の恐怖はそればかりでない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。
焼津、三崎港、東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って“マグロ恐慌状態”が生じた。東京の中央卸売市場はコレラの流行以来はじめてセリを中止するに至った。
また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクの中まで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックをあたえた。
そしてこのことが人びとにあらためて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人一人の「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのである。
「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃え広がり、あらゆる市町村会議で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。
そして各地域や職場で自然発生的に始められた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。
原水禁世界大会の開催
1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、と規定した。
そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表五千名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙をながす光景さえみられた。
第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが、「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」である。
原爆反対の声は政府を動かし、世界に響く
3000万人をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動であった。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞく反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や社会団体(日赤など)や水産業界もこの運動を支持したのであった。
これらの世論の高まりは遂に日本政府をも動かすに至った。
かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたが、鳩山首相は「原爆禁止に協力する」と言明するにいたった。
1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地に広がった。
1955年1月には、ウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーン・アピール)が採択された。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのである。
6、 原水爆禁止運動が残した大きな課題
このように、水爆禁止署名運動から日本史上最大の市民運動である原水爆禁止運動が生まれました、しかし、この画期的な原水爆禁止運動は、その後、市民運動の原点に立って運営することができず、紆余曲折を経て3つに分裂し、その対立抗争に多大なエネルギーを消耗することを強いられました。日本史上最大の市民運動をもたらしたこの運動は同時に日本史上最大の市民運動の悲劇ももたらしました。
6、 原水爆禁止運動が残した大きな課題
このように、水爆禁止署名運動から日本史上最大の市民運動である原水爆禁止運動が生まれました、しかし、この画期的な原水爆禁止運動は、その後、市民運動の原点に立って運営することができず、紆余曲折を経て3つに分裂し、その対立抗争に多大なエネルギーを消耗することを強いられました。日本史上最大の市民運動をもたらしたこの運動は同時に日本史上最大の市民運動の悲劇ももたらしました。
この分裂と悲劇の原因を分析・総括した文書の1つが藤原修「原水爆禁止運動の分裂をめぐって――安部一成の平和運動論――」です。
私がこの文書に注目したのは、それが「原水禁運動の分裂は、運動の組織、進め方、理念にわたって、平和運動のあるべき姿についての根源的な問いかけを運動参加者らに突きつけるものであった。」からです。それは「命と平和」を守るといった普遍的な市民運動に取り組む者にとって、避けて通れない問題だからです。
著者は、市民平和運動家の安部一成の言葉を引用して、分裂したそれぞれの組織に共通する特徴として、ピラミッド型組織と上からの中央集権的な組織運営を指摘しています。
そして、この特徴が現場からの燃え盛るような情熱と行動に支えられて生まれた原水爆禁止運動を形ばかりのイベント主義と組織による動員主義に変質させ、形骸化・衰退して、分裂を引き起こす要因となったと分析しています。これに対し、安部一成は、改めて、「自立した個人のひとりひとりの主体性・自主性と情熱・意欲に裏打ちされて参加する行動」という市民運動の活力の源泉に立ち返り、原水爆禁止運動の当事者(被曝者やお母さん)たちがいる現場から再び統一を作り出そうと努力しますが、ピラミッド型組織の問題点を自覚できない旧来の活動家たちと一部の当事者による排斥的な運営のやり方が分裂の修復を困難にしました。比喩的に言えば、戦国時代の新興勢力である信長や信玄が上から支配を行う戦国大名として出現・対立したのに対し、これらに抗して、下から草の根の民衆支配を行う一向一揆衆が出現したような構造です。
私自身、安部一成の分析すべてに賛成できる訳ではないし、分析の不徹底さに不満を感じることがありますが、不勉強を棚に上げて言うと、今までここまで市民運動内部の病巣を真正面から掘り下げた文書に接したことがなく、正直、目からうろこでした。それができた最大の原因は、彼が正しい観点を保持していたからだと思います――市民運動の活力の源泉に立ち返り、運動の当事者たちがいる現場から市民運動を再構築するという。
また、原水禁運動の分裂の背景には、原水爆(核兵器)の禁止という誰もが異論のないゴールを掲げる行動(原水爆実験禁止署名)に賛同した多数の市民を、そのゴールに向かって一歩ずつ進む上で具体的な行動の場面でも引き続き賛同を勝ち取るためにどうしたらよいのか、という市民運動にとって避けて通れない課題の困難さがあります。
私たちもまた、「国は汚染地の子どもたちの命と健康を守れ」という誰もが異論のないゴールを掲げる市民運動です。草の根の「ベ平連」の精神を持ち、努力と創意工夫しだいで、今後、多数の市民の賛同は可能です。しかし、真の困難さはその次にあります――そのゴールに向かって一歩ずつ進む上で具体的な行動の場面でも引き続き多数の市民の賛同を勝ち取るためにどうしたらよいのか、と。それができないとき、私たちの市民運動も四散五裂の可能性があります。私たちは慎重に間違わずに一歩一歩前進する必要があります。
ともあれ、私たちは、安部一成の当時に比べ、その後、「べ平連」や下からの民主主義である「ワーカーズコレクティブ」といった出来事を経験しています。これらを学ぶことにより、原水禁運動の分裂の悲劇を反復しないように対策が可能です。そのための条件について、ともに考えていきたいと思っています。
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